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Posted by 滋賀咲くブログ at

辰年の年賀状展

2011年11月23日

11月25日(金)から開催する「趣味家謹製!! 辰年の年賀状」についてご紹介します。
平成21年に開催した「道楽絵はがき」展を契機に始まった年賀状展ですが、今年で4年目を迎えます。


伏見人形 竜と玉取海女 昭和15年(1940) 田中緑紅 山内神斧画

 この展覧会は、当館所蔵「米谷徳太郎絵葉書コレクション」の膨大な作品の中から、昭和3年(1928)と昭和15年(1940)辰年の年賀状をご紹介します。

 今年のタイトルには、「趣味家謹製!!」と書きましたが、趣味家というのは、簡単に言えば当時のコレクターです。彼らは、郷土玩具・納札(千社札)・マッチラベル・絵はがき・切符など、当時、巷にあふれていた様々な物を貪欲に蒐集(しゅうしゅう)しました。その結果、蒐集品は趣味家同士の交流を通して、本来の用途から離れ、その物自体の価値が位置付けられることになりました。箸袋や魚の形をした醤油さし、昭和の子どもたちの間で流行した牛乳瓶のふた集めなどをイメージするとわかりやすいでしょうか?ちなみに、現在のトレーディングカードなどは、元々集めるためのものなので、ニュアンスが異なりますが…
 また、その蒐集熱はとどまることを知らず、最後には自分たちで玩具やラベルを作ってしまうという、本来の用途から離れた所へとエスカレートしていきました。ここでご紹介する年賀状も同じです。年賀状といえば、年頭の挨拶状を知り合いに送るものですが、趣味家同士の年賀状は、いつしか年賀状交換会と称する「年賀状を交換し、集める」行為へとなり、それぞれが干支や自らの蒐集テーマから、いかに独創性に溢れた見立てを生み出せるかを競うようになりました。

 今回ご紹介する年賀状は、趣味家たちが知恵を絞った、特別な年賀状なのです。いくつか例をあげてご紹介しましょう。

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Posted by otsu-rekihaku at 14:53 ミニ企画展

陸軍少年飛行兵学校の日の丸の寄せ書き

2011年08月04日

シリーズ「大津・戦争・市民」第4弾

今回は陸軍少年飛行兵学校について紹介します。
この兵学校は、昭和18年(1943)4月、大津別所の地で正式に開校しました。
ここで「正式に開校」と書いたのは、
実はその前年、昭和17年10月、東京陸軍航空学校の「教育隊」が
別所の地で設立されていました。
ただ、正式開校するには法律の改正が必要だったとのことです。


写真1 別所の陸軍少年飛行兵学校跡 
写真は昭和30年代に撮影されたもので、当時は戦後同地に進駐したアメリカ占領軍のキャンプ地でした。ただ、ここに写っている兵舎などは陸軍少年飛行兵学校時代とほとんど同じでした。

入校資格者の最年少は、
中等学校2年修了者か高等小学校卒業生なので
14歳か15歳ということになります。
今の中学3年生です。
若者というよりは、「子ども」といってもいいくらいです。

さて、別所の地には、陸軍歩兵第九連隊が駐屯していましたが、
昭和9年、最後まで残っていた第三大隊が満州に従軍したことから、
しばらく空き家になっていたところへ
陸軍病院が建てられ、
さらにそれが移転して、少年飛行兵学校が建てられたのです。
別所の歴史は、ちょっとややこしいので、注意が必要です。

今回紹介する資料は、その少年飛行兵学校への入校に際して
親類や友人が贈った日の丸の寄せ書きです。


写真2 日の丸の寄せ書き 
右端には「祈 武運長久」、上段には右から「皇威発揚」と墨書きされています。

普通、日の丸の寄せ書きと言えば、
召集令状を受け取った若者が、召集に応じて、つまり応召兵として
入営(出征)するときに贈られたのですが、
飛行兵学校のように、14歳くらいの子どもが
このような日の丸の寄せ書きを貰ったと思うと
なんとも戦争の残酷さに胸がいたみます。
日の丸の寄せ書きは、各種スポーツの世界大会やオリンピックに出場する
日本選手が持っているのが、テレビなどに映ったりしますが、
戦争に行くのに貰うというのは、二度とあってはならないことと思います。
                                   (担当学芸 O.H)





Posted by otsu-rekihaku at 10:47 ミニ企画展

第九連隊軍隊生活絵はがき・ミニ企画展「大津・戦争・市民」

2011年07月31日

シリーズ「大津・戦争・市民」 第3弾

今回は、陸軍歩兵第九連隊の軍隊生活を撮影した絵はがきを紹介します。
この絵はがきは、九連隊出身の方からご寄贈いただきましたが、
九連隊の兵士が家族に近況報告をするときや
ご家族の方々が面会に来られたときに購入されたものだと思います。


写真1 軍隊生活実写絵ハガキ袋

袋の表に印刷された高田真心堂は、
以前は琵琶湖疏水の近くにお店がまだありました。
私の記憶している場所と
戦争当時の場所がひょっとして違うかもしれませんが、
九連隊のえはがき制作を請け負っておられたのでしょう。

さて、九連隊といえば、京都の連隊だと記憶されている方も多いのではないでしょうか。
「またも負けたか八連隊、それでは勲章九連隊(くれんたい)」という歌を
私も子どものときに大人の人から聞かされたことを記憶していて、
そのときの八連隊は大阪、九連隊は京都にあり、
「大阪と京都の連隊は弱かったんや」って話してくれたのを覚えています。
ただ、第九連隊は明治10年の西南戦争に従軍していますが、
戦死者は東京の連隊に次いで2番目に多く、
その勇猛ぶりは三井寺観音堂裏山の
西南戦争記念碑にも記されています。

九連隊は先号のブログでも説明したように、
明治8年(1875)、大津別所の地に駐屯しましたが、
大正8年(1919)、軍縮政策の影響で
第三大隊を残して京都の伏見第16師団に編入されました。
残された第三大隊も、昭和9年(1934)に満州に派遣されてから
大津には戻ってこなかったのです。
そんな歴史があるので、九連隊は京都という意識が残っているようです。


写真2 就寝風景


写真3 食事風景


絵はがきは、その第三大隊のもので、
内務班での就寝風景や食事風景などが写されています。
今となっては貴重な資料となってしまいました。
                              (担当学芸 O.H)






Posted by otsu-rekihaku at 16:39 ミニ企画展

貴重な陸軍第九連隊兵舎の写真・ミニ企画展「大津・戦争・市民」

2011年07月18日

シリーズ「大津・戦争・市民」第2回

シリーズ第2弾は、明治末年に撮影された陸軍歩兵第九連隊の写真です。
明治6年(1873)1月、明治新政府によって徴兵制が施行されると、
同年、全国を6つの軍管区に分けて、その下に連隊を置くことで、
兵力の整備を計りました。
このとき、軍管区も連隊も、ナンバーを付けて呼ばれるようになります。
大津には、第四軍管大阪鎮台所属の第九連隊と呼ばれました。
陸軍歩兵第九連隊の始まりです。

ただ、大津に移駐してきたのは明治8年でした。
場所は別所の地、現在の滋賀県立大津商業高校の建つ地で、
そこに兵舎が建ち並び、兵舎の東方(琵琶湖側)は広い練兵場でした。

以前、京都市山科区の方から、
この第九連隊の兵舎を撮影した明治末年の写真を寄贈していただきました。

かなり鮮明な写真で、拡大すると、第九連隊の正門や兵舎、練兵場、
その背後の将校集会所、弾薬庫の詳細が見てとれます。

以下に、全体写真と正門付近、将校集会所付近の写真3枚を掲載し、
解説を付けましたので、興味のある方はご覧ください。


写真1 第九連隊兵舎全景
画面左下には(練兵場の向かって左側)、藁葺きの小屋や莚を干している風景が写されています。
また兵舎は、現在の大津商業高校あたりですが、向かって右側、寄棟の屋根に2階建ての兵舎2棟が並んでいるのは、
現在の大津市役所本館・新館・別館が建っているところです。


写真2 第九連隊正門付近
現在の大津商業高校正門と同じ場所にあたります。門の手前両側には、門衛の詰め所となっていた小さな建物が見えます。
九連隊の敷地全体が少し高くなっており、手前の練兵場との間に細い道があることも確認できます。


写真3 将校集会所付近
写真左上、九連隊兵舎群の向こうの山すそに、将校集会所が写っています。
この集会所は戦後、アメリカ軍が接収し、引き続き使用していたのですが、
昭和26年、漏電によって全焼し、その後、洋風の建物が建設されます。
この新しい建物は、年配の市民の方は覚えておられると思いますが、
ながらく大津市民文化会館として活用されていたものです。
なお、全焼前の将校集会所は、彦根城内の建物を移築したものとも言われています。
また、その集会所の右上には、土手に囲まれた蔵のような建物が写っていますが、
これは九連隊の弾薬庫とのことです。

この写真は、現在開催中のミニ企画展「大津・戦争・市民」の最初のコーナーに展示しています。

ミニ企画展は、9月4日(日)まで。
毎週月曜日は休館。
ただし7月18日(月)の「海の日」は開館し、
翌日が休館になりますので、ご注意ください。

                               (担当学芸O.H)


Posted by otsu-rekihaku at 12:35 ミニ企画展

パンプキン爆弾ひさびさに展示!ミニ企画展「大津・戦争・市民」

2011年07月14日

シリーズ「大津・戦争・市民」 第1回

今年も暑い夏がめぐってきました。
第二次世界大戦、
日本側から言うならば、日中戦争と太平洋戦争。
その終戦の年から数えて、今年は66年目になります。
戦争体験者の高齢化による記憶の風化は年々厳しくなり、
その記憶を後世に伝える役目は、
あと2年で還暦を迎える筆者の世代の責任だと思っています。
つまりは、自分の父親や母親が戦争経験者である世代
まさに「戦後第二世代」と名づけてもいいかと思う今日この頃です。

前置きが長くなりましたが、
今年もミニ企画展で「大津・戦争・市民」を開催しています。
会期は、7月12日(火)から9月4日(日)までです。


展示室内風景

その展示の一環で、久しぶりにパンプキン爆弾の実物大模型を展示しました。
この模型は、平成21年度に大規模に開催した企画展「戦争と市民」に際して制作したものです。

アメリカ軍は戦争末期の昭和20年7月から8月にかけて、
日本全国に49発のパンプキン爆弾を投下、各地で多くの犠牲者が出ました。
全長約3.5m、球体部直径約1.5m、実物の重量は約4.5キロでした。
重量はともかく、制作した模型の大きさは、現物と同じに作っています。
歴史博物館のエントランスホールに展示しましたが、
あらためて「大きい爆弾やったんやなあ」と驚いてしまいます。


パンプキン爆弾模型 歴史博物館エントランスホールに展示 

パンプキン爆弾は、大津市内では昭和20年7月24日午前7時47分、
本市南部の東洋レーヨン石山工場(現東レ滋賀事業場)に投下されました。
記録によれば、死者16名、重傷者13名とありますが、
実際の数字がどうなのかは不明のままなのです。

このパンプキン爆弾は、長崎に投下される原爆(通称ファットマン)と同型でした。
このような球体に近い爆弾を投下した場合、
どのような落下コースになり、そもそも正確に目的地に命中するのか、
また、爆発後に起こる爆風に、アメリカの爆撃機(B29)が巻き込まる恐れがあるため、
投下直後に急旋回して避難するための訓練も必要だったのです。
名称は、パンプキン(かぼちゃ)のようにずんぐりと丸い形をしているからで、
色もパンフキン色に塗装されていたのです。

今から66年前に投下された原子爆弾による放射能被害は、
その後長く被爆者に陰を落とし続けています。

「原子爆弾は広島と長崎の話だから・・」と思ってしまうと、
滋賀県や大津市の歴史からは遠いものに感じますが、
予行演習は、私たちが住み、また勤務している大津市でも実施されたという事実を
私たちは後世に伝えていくことが必用だと思います。

パンプキン爆弾の実物大模型を是非ご覧いただき、
かつてあった戦争の時代に思いを馳せ、
平和への願いを新たにしていただきたいと思います。(続く)

                                      (担当学芸O.H)









Posted by otsu-rekihaku at 13:08 ミニ企画展