「戦争と大津」展 日米親善の使者‐青い目の人形‐(その1)
2014年08月03日
昭和2年(1927)、日米親善を目的として、1万2,739体もの「青い目の人形」が日本の子どもたちに贈られるという、素晴らしい出来事がありました。その当時、日本の経済状態は悪化していたので、職業を求めて多くの日本人が渡米しましたが、日本人移民とアメリカ人の間で、労働をめぐる摩擦が起こったのです。それは、低賃金でよく働く日本人のために、アメリカの労働者の職が無くなるという事態が起こったためです。それに、黄色人種に対する偏見も、摩擦の一因となっていたようです。そのことを心配した、シドニー・ルイス・ギューリックというアメリカの宣教師が、日米親善を子どもたちの交流によって育てようと考え、大量の「青い目の人形」を贈ろうと思いついたのでした。
ギューリックは米国で「世界児童親善会」を組織し、人形を贈るため全米に協力を呼びかけたところ、48州、260万人の人々の善意により、多くの人形が親善会の元に寄せられたのです。それらの人形には一体ずつパスポートまで添えられ、3月3日のひな祭りに合わせて船で日本にやってきたのです。東京で大規模な歓迎会が開かれました。日本側でも事前に人形たちの受け入れ体制がつくられました。その中心人物は、日本の実業界で活躍し、慈善運動や国際交流に尽力し渋沢栄一で、文部省・外務省の協力を得て「日本国際児童親善会」が組織されたのです。東京での歓迎会のあと、人形たちは全国の小学校と幼稚園に配られました。ただ、学校数の関係から抽選が行われました。
ところで、この人形たちが「青い目の人形」と呼ばれたのは、それより6年ほど前の大正10年(1921)につくられて流行した童謡の題名によるものでした。「青い眼(目)をしたお人形は、アメリカ生まれのセルロイド・・・」という、皆さんご存知の童謡です。この同様のために、昭和2年に贈られた人形はセルロイドで出来ていたといった誤解があるようですが、人形は、コンポジションドールという、おがくず(大鋸屑)と粘土を混ぜて着色したもので、当時アメリカで流行していた人形でした。
さて、3月から4月にかけて、滋賀県には135体の人形が贈られ、各幼稚園、小学校でも、様々に歓迎会が開かれました。

長等小学校での歓迎会写真―日米国旗を飾ってのお遊戯 大津市立長等小学校蔵

堅田小学校での歓迎会風景 大津市立堅田小学校蔵

逢坂小学校では大将人形と一緒に飾られました 大津市立逢坂小学校蔵

日野小学校での歓迎風景。 講堂正面の奉安庫(奉安殿) 日野町立日野小学校蔵
日本では、「青い目の人形」を贈られたお礼にと、立派な日本人形(市松人形)をこしらえて、クリスマスに間に合うようにと、昭和2年の11月に贈りました。その数は各府県一体など、全部で58体にのぼりました。人形をつくる費用には、「青い目の人形」を贈られた学校の児童たちによる、一人一銭ずつの寄付金があてられました。滋賀県代表としてこしらえられた人形は「ミス滋賀県」と名付けられ、当時アメリカのフロリダ州マイアミ市の図書館で保管されましたが、残念ながら現在は残されていません。

答礼人形「ミス滋賀県」
人形の前には、一緒に贈られた嫁入り道具の箪笥や鏡台なども飾られています。
しかし、それから14年後の昭和16年(1945)12月8日、日本軍の真珠湾攻撃により、アメリカとの間に戦争が起こると、人形たちに悲しい出来事が起こったのです。
(続く)
(館長・学芸員 樋爪)
ギューリックは米国で「世界児童親善会」を組織し、人形を贈るため全米に協力を呼びかけたところ、48州、260万人の人々の善意により、多くの人形が親善会の元に寄せられたのです。それらの人形には一体ずつパスポートまで添えられ、3月3日のひな祭りに合わせて船で日本にやってきたのです。東京で大規模な歓迎会が開かれました。日本側でも事前に人形たちの受け入れ体制がつくられました。その中心人物は、日本の実業界で活躍し、慈善運動や国際交流に尽力し渋沢栄一で、文部省・外務省の協力を得て「日本国際児童親善会」が組織されたのです。東京での歓迎会のあと、人形たちは全国の小学校と幼稚園に配られました。ただ、学校数の関係から抽選が行われました。
ところで、この人形たちが「青い目の人形」と呼ばれたのは、それより6年ほど前の大正10年(1921)につくられて流行した童謡の題名によるものでした。「青い眼(目)をしたお人形は、アメリカ生まれのセルロイド・・・」という、皆さんご存知の童謡です。この同様のために、昭和2年に贈られた人形はセルロイドで出来ていたといった誤解があるようですが、人形は、コンポジションドールという、おがくず(大鋸屑)と粘土を混ぜて着色したもので、当時アメリカで流行していた人形でした。
さて、3月から4月にかけて、滋賀県には135体の人形が贈られ、各幼稚園、小学校でも、様々に歓迎会が開かれました。

長等小学校での歓迎会写真―日米国旗を飾ってのお遊戯 大津市立長等小学校蔵

堅田小学校での歓迎会風景 大津市立堅田小学校蔵

逢坂小学校では大将人形と一緒に飾られました 大津市立逢坂小学校蔵
日野小学校での歓迎風景。 講堂正面の奉安庫(奉安殿) 日野町立日野小学校蔵
日本では、「青い目の人形」を贈られたお礼にと、立派な日本人形(市松人形)をこしらえて、クリスマスに間に合うようにと、昭和2年の11月に贈りました。その数は各府県一体など、全部で58体にのぼりました。人形をつくる費用には、「青い目の人形」を贈られた学校の児童たちによる、一人一銭ずつの寄付金があてられました。滋賀県代表としてこしらえられた人形は「ミス滋賀県」と名付けられ、当時アメリカのフロリダ州マイアミ市の図書館で保管されましたが、残念ながら現在は残されていません。

答礼人形「ミス滋賀県」
人形の前には、一緒に贈られた嫁入り道具の箪笥や鏡台なども飾られています。
しかし、それから14年後の昭和16年(1945)12月8日、日本軍の真珠湾攻撃により、アメリカとの間に戦争が起こると、人形たちに悲しい出来事が起こったのです。
(続く)
(館長・学芸員 樋爪)
タグ :戦争と大津展
企画展「膳所城と藩政」開催中です!
企画展「大津の都と白鳳寺院」が開幕しました!
瀬田の古い写真を展示します!
企画展「田上てぬぐい‐暮らしと文化‐」とおもちゃづくりワークショップ「田上製作所(タナカミファクトリー)」展開催中です!
旧志賀町の古写真を大幅増量‼
志賀町・大津市合併10周年記念展「村の古地図-志賀地域を歩く-」スタート
企画展「大津の都と白鳳寺院」が開幕しました!
瀬田の古い写真を展示します!
企画展「田上てぬぐい‐暮らしと文化‐」とおもちゃづくりワークショップ「田上製作所(タナカミファクトリー)」展開催中です!
旧志賀町の古写真を大幅増量‼
志賀町・大津市合併10周年記念展「村の古地図-志賀地域を歩く-」スタート
Posted by
otsu-rekihaku
at
13:41
│
展覧会