企画展「車石」関連講座を開催
2012年03月20日
企画展「車石(くるまいし)-江戸時代の街道整備-」関連講座を開催
3月3日(土)、午後2時から4時にかけて、
企画展関連講座「車石の謎にせまる・トークバトル」を開催しました。
講師は、当館館長の樋爪修、車石・車道研究会会員の武内良一氏、
同じく研究会事務局長の久保孝氏の3名で、
各30分の講演の後、参加者からの質問をもとに各講師がお答えする、という形式で
講座を進めました。
なお当日は、113名の参加者をお迎えすることがてきました。

館長の樋爪修
まず最初に、館長の樋爪が車石に関する研究史を振り返りました。
従来、車石に付いている溝は事前に彫られたものだとする説が主流でしたが、
今では、牛車の通行によって磨耗し、自然に溝が出来たとする見解に変わってきていることを紹介。
ただ、江戸時代に東海道を通った外国人の紀行文や、明治44年発行の『大津市志』には、
むしろ、度重なる牛車の通行によって、自然に磨耗して出来たと書かれていたものが、
昭和初年以降、だんだん、人工説に変わってきたが、それらの説の変化には何の根拠も示されていないことを、
過去の市史や資料を紹介しながら明らかにしました。
この自然説から人工説への変遷の原因は、実証的な資料によるものではなく、
多分に、溝の深い典型的な?車石の存在自体から想像されたものではないかと考えられるのです。

講師の武内良一さん
つづいて、武内氏は、実際に日ノ岡府道擁壁に埋め込まれた車石581個を、
久保事務局長と調査された成果を発表されました。
それによると、
溝の深さが1cmから8cmのものが144個、約25%だったのに対し、
溝の深さが1cm未満のものが487個、約75%に上るのです。
人工説のイメージが定着することになったと考えられる、「溝の深い車石」よりも、
非常に溝の浅い車石が圧倒的に多いことを、実物資料の丹念な調査によって提示されたのです。
この武内氏らの実証研究は貴重だと思います。
もしも溝の浅い車石から発想した場合、果たして人工説が主流をしめていたのかどうか、
ということです。

講師の久保孝さん
最後に久保氏が、最初平板であった車石に、車輪の通過による溝ができるメカニズムを
溝跡から採取した拓本にみられる特徴的なキズ跡から明らかにされました。
つまり、当時の牛車の車輪の構造的な特徴から、
車石の上を、左右に揺れながら車輪が通過するため、
溝に並行なキズ跡ではなく、溝の中央に向かって直角にキズ跡が出来ると推定され、
実際の拓本も、そのようなキズ跡が残されていることを紹介されました。
武内・久保両氏の研究は、車石の実物と向き合い、丹念に観察された成果であり、
当日参加された方々も、納得と驚きの表情で聞いておられました。

会場内の様子
3人の講演の後、参加者からの質問を募りましたが、
たくさんの方から、多岐にわたる質問が出されました。
車石敷設工事の費用の出資者や工事全体にかかった経費の問題、
車石は一車線だが、どのように上りと下りの調整をしていたのか、
牛車の車幅は一定の規格があったのか、
そもそも、牛車の通行をスムースにするために石を敷くという発想は、
いつごろからあったのか、また東海道・竹田街道・鳥羽街道の3街道だけだったのかなどなど。
それに対する回答は、続編のブログにより、逐次紹介をしていく予定です。
(担当学芸員 O.H)
3月3日(土)、午後2時から4時にかけて、
企画展関連講座「車石の謎にせまる・トークバトル」を開催しました。
講師は、当館館長の樋爪修、車石・車道研究会会員の武内良一氏、
同じく研究会事務局長の久保孝氏の3名で、
各30分の講演の後、参加者からの質問をもとに各講師がお答えする、という形式で
講座を進めました。
なお当日は、113名の参加者をお迎えすることがてきました。

館長の樋爪修
まず最初に、館長の樋爪が車石に関する研究史を振り返りました。
従来、車石に付いている溝は事前に彫られたものだとする説が主流でしたが、
今では、牛車の通行によって磨耗し、自然に溝が出来たとする見解に変わってきていることを紹介。
ただ、江戸時代に東海道を通った外国人の紀行文や、明治44年発行の『大津市志』には、
むしろ、度重なる牛車の通行によって、自然に磨耗して出来たと書かれていたものが、
昭和初年以降、だんだん、人工説に変わってきたが、それらの説の変化には何の根拠も示されていないことを、
過去の市史や資料を紹介しながら明らかにしました。
この自然説から人工説への変遷の原因は、実証的な資料によるものではなく、
多分に、溝の深い典型的な?車石の存在自体から想像されたものではないかと考えられるのです。

講師の武内良一さん
つづいて、武内氏は、実際に日ノ岡府道擁壁に埋め込まれた車石581個を、
久保事務局長と調査された成果を発表されました。
それによると、
溝の深さが1cmから8cmのものが144個、約25%だったのに対し、
溝の深さが1cm未満のものが487個、約75%に上るのです。
人工説のイメージが定着することになったと考えられる、「溝の深い車石」よりも、
非常に溝の浅い車石が圧倒的に多いことを、実物資料の丹念な調査によって提示されたのです。
この武内氏らの実証研究は貴重だと思います。
もしも溝の浅い車石から発想した場合、果たして人工説が主流をしめていたのかどうか、
ということです。

講師の久保孝さん
最後に久保氏が、最初平板であった車石に、車輪の通過による溝ができるメカニズムを
溝跡から採取した拓本にみられる特徴的なキズ跡から明らかにされました。
つまり、当時の牛車の車輪の構造的な特徴から、
車石の上を、左右に揺れながら車輪が通過するため、
溝に並行なキズ跡ではなく、溝の中央に向かって直角にキズ跡が出来ると推定され、
実際の拓本も、そのようなキズ跡が残されていることを紹介されました。
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タグ :車石展
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