企画展「比叡山-みほとけの山-」開催中です③
2015年11月02日
企画展「比叡山-みほとけの山-」は、ちょうど折り返しです
。
たくさんの方にお越しいただき誠にありがとうございます
①・②につづき、展示室Bの叡山文庫の展示資料についてご紹介しましょう。
展示室Bは、全部で4部構成になっています。
(1)比叡山復興と古文書・絵図・典籍
比叡山は、元亀2年(1571)に織田信長の焼き討ちによって一山が壊滅状態に陥ります。しかし、その後、天正10年(1582)以降、少しずつ再興が始まっていきます。そこで、散佚した仏像や仏画、そして典籍や文書が再び集積されます。おそらく、焼き討ちを逃れて避難していたものもあったでしょう。
このコーナーでは、そうした復興に関わる古文書を展示して、その流れを追いつつ、山門復興に尽力した施薬院全宗や観音寺詮舜の新出文書を展示しています。

写真1 比叡山再興勧進帳 天正10年(1580)12月
比叡山延暦寺(叡山文庫・延暦寺)蔵
(2)巡礼地 比叡山 -寺誌・地誌・案内記-
先のブログ①で、比叡山の全体像をしっていただくために、「比叡山全図」を紹介しました。
では、実際に、比叡山の山内や山麓にはどういった堂舎や建物があったのでしょうか。それを知る手掛かりは、比叡山山内・山下のデータブックともいうべき、『山門堂舎記』や巡礼記といったテキストです。
ほとんどが冊子ですので、すべてのページをご覧いただくことはできませんが、『群書類従』や『天台宗全書』にそのいくつかが解読されています。今はなくなってしまった堂舎やその由緒、歴史が書かれた書物です。絵図とセットで、比叡山全体を考えるうえで欠かせない資料群です。

写真2 山門堂舎記 江戸時代写 比叡山延暦寺(叡山文庫・真如蔵)蔵
(3)描かれた比叡山-霊場・空間・結界-
すでにブログ①で紹介した「比叡山全図」のほか、普段は目にすることがない叡山文庫の絵図を多く展示しています。ここでのポイントは、江戸時代から明治時代にかけて、比叡山の空間がどう変化していったか(あるいはしなかったのか)です。特に、宝永4年(1707)に西側の八瀬村との争論の際に作成された、「山門結界裁許絵図写」では、宗教的な境界と経済的な領域が確定しました。明治時代まで継続されたそれら境界は、京都府と滋賀県の境目を画定する際にも影響しました。
各絵図作成の背景も解説していますので、ぜひご覧ください。

写真3 山門結界裁許絵図写 宝永5年(1708)写 比叡山延暦寺(叡山文庫・止観院)蔵
(4)集積される比叡山の知
最後のコーナーは、比叡山で蓄積されてきた典籍類を「群」で説明するものです。
ここでは特に、徳川家康のブレーンともなった南光坊天海の「天海蔵」、東塔南谷の實俊によって集積された「真如蔵」、そして、観音寺詮舜の弟子らによって集積された「正教蔵」(の関係資料)を展示しています。山門復興以降に、堂舎再建とともに、天台宗僧の修学のためのテキストが、山内で書写・作成・集積された過程がわかります。

写真4 天海蔵函 江戸時代 比叡山延暦寺(叡山文庫・天海蔵)蔵
展示室Aの貴重な仏像・仏画をご覧いただき、「おわった」と思った瞬間に、次の部屋(展示室B)で以上のような歴史系の展示、そしてミニ企画展室では、その延長で天台密教の大百科「阿婆縛抄」を一挙公開しています。
盛りだくさんな内容ですが、比叡山、天台宗を1日にで知っていただくまたとない機会です。ぜひ、秋深まる11月、大津市歴史博物館へ!!(11月5日から後期展示がはじまります)
展覧会「比叡山-みほとけの山-」の詳細情報はこちら
→詳細ページ(別ウィンドウで開きます)http://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/news/1510.html
(学芸員 たかはし)

たくさんの方にお越しいただき誠にありがとうございます

①・②につづき、展示室Bの叡山文庫の展示資料についてご紹介しましょう。
展示室Bは、全部で4部構成になっています。
(1)比叡山復興と古文書・絵図・典籍
比叡山は、元亀2年(1571)に織田信長の焼き討ちによって一山が壊滅状態に陥ります。しかし、その後、天正10年(1582)以降、少しずつ再興が始まっていきます。そこで、散佚した仏像や仏画、そして典籍や文書が再び集積されます。おそらく、焼き討ちを逃れて避難していたものもあったでしょう。
このコーナーでは、そうした復興に関わる古文書を展示して、その流れを追いつつ、山門復興に尽力した施薬院全宗や観音寺詮舜の新出文書を展示しています。

写真1 比叡山再興勧進帳 天正10年(1580)12月
比叡山延暦寺(叡山文庫・延暦寺)蔵
(2)巡礼地 比叡山 -寺誌・地誌・案内記-
先のブログ①で、比叡山の全体像をしっていただくために、「比叡山全図」を紹介しました。
では、実際に、比叡山の山内や山麓にはどういった堂舎や建物があったのでしょうか。それを知る手掛かりは、比叡山山内・山下のデータブックともいうべき、『山門堂舎記』や巡礼記といったテキストです。
ほとんどが冊子ですので、すべてのページをご覧いただくことはできませんが、『群書類従』や『天台宗全書』にそのいくつかが解読されています。今はなくなってしまった堂舎やその由緒、歴史が書かれた書物です。絵図とセットで、比叡山全体を考えるうえで欠かせない資料群です。

写真2 山門堂舎記 江戸時代写 比叡山延暦寺(叡山文庫・真如蔵)蔵
(3)描かれた比叡山-霊場・空間・結界-
すでにブログ①で紹介した「比叡山全図」のほか、普段は目にすることがない叡山文庫の絵図を多く展示しています。ここでのポイントは、江戸時代から明治時代にかけて、比叡山の空間がどう変化していったか(あるいはしなかったのか)です。特に、宝永4年(1707)に西側の八瀬村との争論の際に作成された、「山門結界裁許絵図写」では、宗教的な境界と経済的な領域が確定しました。明治時代まで継続されたそれら境界は、京都府と滋賀県の境目を画定する際にも影響しました。
各絵図作成の背景も解説していますので、ぜひご覧ください。

写真3 山門結界裁許絵図写 宝永5年(1708)写 比叡山延暦寺(叡山文庫・止観院)蔵
(4)集積される比叡山の知
最後のコーナーは、比叡山で蓄積されてきた典籍類を「群」で説明するものです。
ここでは特に、徳川家康のブレーンともなった南光坊天海の「天海蔵」、東塔南谷の實俊によって集積された「真如蔵」、そして、観音寺詮舜の弟子らによって集積された「正教蔵」(の関係資料)を展示しています。山門復興以降に、堂舎再建とともに、天台宗僧の修学のためのテキストが、山内で書写・作成・集積された過程がわかります。
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