広重と東海道3

2008年06月21日

(3)ちょっと寄り道 東海道逢坂越えの車道と歩道について
実は、逢坂越えの車道と歩道は、『東海道名所図会』の「逢坂山・関明神・蝉丸祠」の段にも描かれています。よく目をこらさなければ見過ごしてしまいそうですが、写真の左上端部分をごらんください。京都へと向かう逢坂越えの道の、京都に向かって右側に、牛車が歩道より少し低くなった道を進んでいるのが見えませんか。それが、牛車専用の車道だったのです。

広重と東海道3

次のページに『東海道名所図会』に描かれた車道部分の拡大写真を載せましたので、続きの文章とともにご覧ください。

広重と東海道3

さて逢坂越えにあった走井の茶店は、現在の大谷町月心寺のところにありました。東海道の、京都に向かって左側です。ですから『東海道名所図会』の「走井」に描かれた段差、つまり車道は、街道の京都に向かって右側に描かれていることになります。牛車は、この車道を使って、荷物を大津から京都へ、また逆に京都から大津へと運び、物資の流通に大きな役割を演じていたのです。ただし、この『名所図会』が出版された頃にはまだ、「車石」は敷設されていませんから、雨の日などは特に苦労しながら、牛車は物資を運んでいたのです。「車石」の敷設は文化2年(1805)こと。名所図会出版から8年後のことです。広重はおそらく保永堂版「大津」を描くにあたって、現地は訪れていないのではないかと推測できます。広重がもしも走井に来ていたら、歩道と車道が設けられた「近代的」な街道の風景に感嘆の声を上げていたのではないでしょうか。もちろん広重の時代、天保年間には、先ほどの車石も車道に敷かれいたのですから、なおさら興味津々だったことでしょう。しかし残念にも広重は走井に来なかった・・・。ただ牛車の活躍は耳にしていたでしょうから、走井の店前の「歩道」部分に牛車を描き、名所図会に描かれていた車道の段差の部分は、藍色のほかしを使って処理をしたのです。(次号へ続く)




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Posted by otsu-rekihaku at 13:48 │ コラム