現地見学会「琵琶湖疏水を歩く」
2011年05月20日
去る5月14日(土)、れきはく講座(現地見学会)の事業として
「琵琶湖疏水を歩く」を開催しました。
このコースへの参加者募集定員は30名でしたが、
応募された方は170名を超え、申し訳なかったのですが、多くの方に落選通知を
お送りすることになりましたこと、まずもってお詫び申し上げます。
さて当日は、コース担当解説員が強烈な「雨男」だったにもかかわらず
快晴のうえに、爽やかな風まで吹くというウォーキング日和となりました。
奇跡というほかありません。
集合場所は京阪電鉄石坂線三井寺駅。
そこから小関越を抜け、京都市山科区の第3トンネル東口までの
約8キロメートルが当日のコースでした。
そのときの模様を、写真とともに紹介します。
三井寺駅出発は午前10時。
まず、第1番目の見学地が「大津閘門(こうもん)」でした。
ここに設けられたゲートは、かつて第1疏水が舟運に使われたときの名残であり、
また、すぐ北側には制水門も設けられ、
京都への安定的な流量を確保するための調節がなされていました。

写真1 大津閘門
次に、昭和3年(1928)に架けられた鹿関橋(かせぎばし)に移動。
そこからは、疏水の第1トンネル東口が見通せます。
配布したテキストには、かつて舟が行き来していた頃の古写真も掲載し、
疏水の多目的な役割について紹介しました。

写真2 鹿関橋からの遠望(現況)

写真3 鹿関橋からの遠望(古写真)
疏水の向かって左手には遊覧用の屋形舟が浮かび、右手には曳き舟の様子が見える
疏水に舟が行き来していた頃、京都へ向かう時は水の自然な流れに任せればよかったのですが、
京都から大津に向かう場合は水の流れに逆行するため、
京都の高瀬川や淀川水運のように、人力による曳き船が利用されていたのです。
今も疏水沿いに、その曳き役の人が歩く通路が残されています。
写真2と3を見比べてみてください。
また、第1トンネル東口の洞門(どうもん)には、
初代の内閣総理大臣伊藤博文の「氣象萬千」の文字が刻まれるとともに
その上部には、近寄っても肉眼ではなかなか見つけにくいのですが、
英文によって、田辺朔郎が工事を行ったことが記されています。
写真4を、目を凝らして見てもらうと、伊藤博文の扁額の上のスペースに
なにかアルファベットの文字が見えるでしょ?

写真4 第1トンネル東口洞門(柵外より望遠で撮影)
洞門の構造が、上部に三角屋根を乗せた切妻(きりづま)造りになっていて(全景は写真2参照)、
扁額に刻まれた伊藤博文の文章は篆刻(てんこく)で、右から読みます。
また興味不深い点が二つほど。水が流入する東口の扁額は、文字だけが凹んだ陰刻であること、
切妻造りの構造が、疏水の京都側出口である蹴上(けあげ)の
第3トンネル西口の洞門と同じであることです。
さて、ルートは小関越の道標(江戸時代、大津市指定文化財)を見学後、
峠越えの登り道になります。
峠には、この周辺の道路工事に際して出土した石地蔵を祀る祠(ほこら)が建っています。
この祠は、建設にあたって多くの方々から寄付が集まったので、
喜びを一つにするという意味から「喜一堂」と名づけられています。

写真5 地蔵堂前で説明を聞く参加者
小関峠を下り、西大津バイパスの高架が見えてくる頃、
進行方向左手下方に、写真のような赤レンガ積みの構造物が見えてきます。
これが、第1トンネル工事の第一着手地点の竪坑です。
第1トンネルは全長約2.4キロメートルあり、当時としては日本最長でした。
そこで工期短縮のため、この地点から竪に坑道を掘り下げ、
その最下部から東西に、もちろん、
山の両側からも、つまり合計4箇所から掘削工事を行ったのです。
当時としては初めての工法だったにもかかわらず、4箇所からのルートは
狂いも無くつながったということです。日本人の測量技術のすばらしさには
ただただ脱帽するばかりです。

写真6 第1竪坑 高さ5.5メートル、直径5.5メートル

写真7 第1竪坑を見学する参加者 工事中で当日は近寄れませんでした
小関越えを藤尾側に降りてしばらく行くと、
写真のような第2竪坑が建っています。
ただし周辺は住宅街で、第2竪坑は見えにくい状況ですので、
今後見学される方は、周辺にお住まいの方々のご迷惑にならないように
くれぐれもご注意ください。

写真8 第2竪坑 現在はこのような全体像は撮影できません
そこからしばらく歩くと、また疏水にぶつかります。
ぶつかったところが、第1トンネル西口の洞門になります。
この洞門扁額は、山縣有朋(やまがたありとも)の揮毫(きごう)で、
「廓其有容」(かくとしてそれいるることあり)の4文字が刻まれています。
また注目すべき点として、第1トンネル東口とは逆に、
こちらは水が流出する地点なので、文字だけが浮き出す陽刻になっています。
さらに左右に角柱を立て、天井部も平坦とした構造は、第2トンネル東口と同じです。

写真9 第1トンネル西口洞門(柵外より望遠で撮影)
さらに歩を進めると、諸羽(もろは)トンネル入口に到着します。
昭和45年、国鉄(当時)湖西線の工事にともなって、
疏水の流路が変更されますが、そのときにバイパスとして造られた新しいトンネルです。

写真10 諸羽トンネル
そこからしばらくは、山科盆地を見渡せる散策道が続きますが、
この道が、かつての疏水のルートになるわけです。
その途中にアーチ型(半円形)の構造物が置かれています。
道の脇ですので、見逃してしまいそうです。
これは、第2疏水(全線が暗渠、といっても工事はオープンカット方式)のトンネル工事を実施するときに試作した
鉄筋コンクリート製の天井部分です。

写真11 第2疏水天井部試作品
時間は、午前12時過ぎ。その周辺で一行は昼食をとり、
午前12時40分に出発。
毘沙門堂参道に架かる安朱橋(あんしゅばし)を過ぎ、
天智天皇御陵裏手の石柵を左手に見て、さらに歩を進めると
第2トンネル東口付近に到着します。
道の左手には、昭和4年建設の旧鶴巻邸が見えます。
これは、当時の新しい技術である「中村鎮(まもる)式鉄筋コンクリートブロック造り」の工法を導入したもので、
設計は、京都の西陣織物会館(現京都市考古資料館)を担当した本野精吾(もとのせいご)です。
その脇に、第10号橋が架かっています。
アーチ状になっており、太鼓橋の異称がある橋で、
橋の両端側面に、工事の請負人や技師の名前とともに、
架橋年代が刻まれています。
ちょうど年代を示す数字の部分が読めなくなっていますが、
別の記録によると、明治37年(1904)とのことです。

写真12 第10号橋(太鼓橋)

写真13 第10号橋の刻銘
そこからは、第2トンネル東口の洞門が間近に見えます。
扁額は井上馨(かおる)の揮毫で、「仁以山悦智為水歓」の8文字です。
洞門の構造は第1トンネル西口とほぼ同じ。扁額の文字は陰刻です。

写真14 第2トンネル東口洞門
道を左手に上ると住宅街になりますが、
しばらくすると、また右手に曲がる道があります。
その道を降りると、目の前に第2トンネル西口が見えてきます。
この扁額に刻まれた文字は西郷従道(つぐみち)で、
かの有名な西郷隆盛の弟になります。文字は陽刻で
「随山到水源」(やまにしたがいすいげんにいたる)と刻まれています。
また、今までとは違ったヨーロッパの中世城郭のような豪壮華麗な構造です。
実は第3トンネル東口も、少し構造は違いますが、
これと同じ城郭風の姿になっていますので、注目していてください。

写真15 第2トンネル西口洞門
本日のコースも、終わり近くになってきました。
そこからほんのしばらく進むと、
第3トンネル入口に到着します。
その手前に、日本最初の鉄筋コンクリート橋が見えます。
現在は鉄柵に囲まれていますが、明治36年(1903)の架橋。
当時は材料に不足し、疏水工事用のトロッコのレールが
鉄筋替わりに使用されたということです。
橋板を渡しただけの簡素な構造になっているのが、いかにも日本最初を感じさせます。
実は、さきほど紹介しました第10号橋(太鼓橋)は、
このときの経験を活かして翌年に架橋したものだったのです。
その橋を渡ると、日本最初の橋を記念した石碑が立っています。
表面には「本邦最初鉄筋混凝土橋」とコンクリートを漢字てうまく表現した文字が刻まれているのも微笑ましいですね。

写真16 日本最初の鉄筋コンクリート橋

写真17 記念碑
さて、いよいよ今回の最終見学地、第3トンネル東口に到着しました。
といっても鉄筋コンクリート橋のすぐ近くですが・・・。
このトンネルの洞門は、さきほど紹介した第2トンネル西口と似た構造ですよね。
扁額は松方正義(まさよし)の揮毫になる「過雨看松色」(かうしょうしょくをみる)で、
水が流入しているので、今までのとおり陰刻になっています。

写真18 第3トンネル東口

写真19 しめくくりのあいさつをする担当者
時間は午後2時15分。参加者をお連れして
説明しもっての道中にしては、少し早いペースでしたが、
参加者の方々のご協力により、
脱落される方も無く、無事終了することができました。
当日参加された皆さん、ご苦労様でした。
(担当学芸O.H)
「琵琶湖疏水を歩く」を開催しました。
このコースへの参加者募集定員は30名でしたが、
応募された方は170名を超え、申し訳なかったのですが、多くの方に落選通知を
お送りすることになりましたこと、まずもってお詫び申し上げます。
さて当日は、コース担当解説員が強烈な「雨男」だったにもかかわらず
快晴のうえに、爽やかな風まで吹くというウォーキング日和となりました。
奇跡というほかありません。
集合場所は京阪電鉄石坂線三井寺駅。
そこから小関越を抜け、京都市山科区の第3トンネル東口までの
約8キロメートルが当日のコースでした。
そのときの模様を、写真とともに紹介します。
三井寺駅出発は午前10時。
まず、第1番目の見学地が「大津閘門(こうもん)」でした。
ここに設けられたゲートは、かつて第1疏水が舟運に使われたときの名残であり、
また、すぐ北側には制水門も設けられ、
京都への安定的な流量を確保するための調節がなされていました。
写真1 大津閘門
次に、昭和3年(1928)に架けられた鹿関橋(かせぎばし)に移動。
そこからは、疏水の第1トンネル東口が見通せます。
配布したテキストには、かつて舟が行き来していた頃の古写真も掲載し、
疏水の多目的な役割について紹介しました。

写真2 鹿関橋からの遠望(現況)

写真3 鹿関橋からの遠望(古写真)
疏水の向かって左手には遊覧用の屋形舟が浮かび、右手には曳き舟の様子が見える
疏水に舟が行き来していた頃、京都へ向かう時は水の自然な流れに任せればよかったのですが、
京都から大津に向かう場合は水の流れに逆行するため、
京都の高瀬川や淀川水運のように、人力による曳き船が利用されていたのです。
今も疏水沿いに、その曳き役の人が歩く通路が残されています。
写真2と3を見比べてみてください。
また、第1トンネル東口の洞門(どうもん)には、
初代の内閣総理大臣伊藤博文の「氣象萬千」の文字が刻まれるとともに
その上部には、近寄っても肉眼ではなかなか見つけにくいのですが、
英文によって、田辺朔郎が工事を行ったことが記されています。
写真4を、目を凝らして見てもらうと、伊藤博文の扁額の上のスペースに
なにかアルファベットの文字が見えるでしょ?

写真4 第1トンネル東口洞門(柵外より望遠で撮影)
洞門の構造が、上部に三角屋根を乗せた切妻(きりづま)造りになっていて(全景は写真2参照)、
扁額に刻まれた伊藤博文の文章は篆刻(てんこく)で、右から読みます。
また興味不深い点が二つほど。水が流入する東口の扁額は、文字だけが凹んだ陰刻であること、
切妻造りの構造が、疏水の京都側出口である蹴上(けあげ)の
第3トンネル西口の洞門と同じであることです。
さて、ルートは小関越の道標(江戸時代、大津市指定文化財)を見学後、
峠越えの登り道になります。
峠には、この周辺の道路工事に際して出土した石地蔵を祀る祠(ほこら)が建っています。
この祠は、建設にあたって多くの方々から寄付が集まったので、
喜びを一つにするという意味から「喜一堂」と名づけられています。
写真5 地蔵堂前で説明を聞く参加者
小関峠を下り、西大津バイパスの高架が見えてくる頃、
進行方向左手下方に、写真のような赤レンガ積みの構造物が見えてきます。
これが、第1トンネル工事の第一着手地点の竪坑です。
第1トンネルは全長約2.4キロメートルあり、当時としては日本最長でした。
そこで工期短縮のため、この地点から竪に坑道を掘り下げ、
その最下部から東西に、もちろん、
山の両側からも、つまり合計4箇所から掘削工事を行ったのです。
当時としては初めての工法だったにもかかわらず、4箇所からのルートは
狂いも無くつながったということです。日本人の測量技術のすばらしさには
ただただ脱帽するばかりです。

写真6 第1竪坑 高さ5.5メートル、直径5.5メートル
写真7 第1竪坑を見学する参加者 工事中で当日は近寄れませんでした
小関越えを藤尾側に降りてしばらく行くと、
写真のような第2竪坑が建っています。
ただし周辺は住宅街で、第2竪坑は見えにくい状況ですので、
今後見学される方は、周辺にお住まいの方々のご迷惑にならないように
くれぐれもご注意ください。
写真8 第2竪坑 現在はこのような全体像は撮影できません
そこからしばらく歩くと、また疏水にぶつかります。
ぶつかったところが、第1トンネル西口の洞門になります。
この洞門扁額は、山縣有朋(やまがたありとも)の揮毫(きごう)で、
「廓其有容」(かくとしてそれいるることあり)の4文字が刻まれています。
また注目すべき点として、第1トンネル東口とは逆に、
こちらは水が流出する地点なので、文字だけが浮き出す陽刻になっています。
さらに左右に角柱を立て、天井部も平坦とした構造は、第2トンネル東口と同じです。
写真9 第1トンネル西口洞門(柵外より望遠で撮影)
さらに歩を進めると、諸羽(もろは)トンネル入口に到着します。
昭和45年、国鉄(当時)湖西線の工事にともなって、
疏水の流路が変更されますが、そのときにバイパスとして造られた新しいトンネルです。
写真10 諸羽トンネル
そこからしばらくは、山科盆地を見渡せる散策道が続きますが、
この道が、かつての疏水のルートになるわけです。
その途中にアーチ型(半円形)の構造物が置かれています。
道の脇ですので、見逃してしまいそうです。
これは、第2疏水(全線が暗渠、といっても工事はオープンカット方式)のトンネル工事を実施するときに試作した
鉄筋コンクリート製の天井部分です。
写真11 第2疏水天井部試作品
時間は、午前12時過ぎ。その周辺で一行は昼食をとり、
午前12時40分に出発。
毘沙門堂参道に架かる安朱橋(あんしゅばし)を過ぎ、
天智天皇御陵裏手の石柵を左手に見て、さらに歩を進めると
第2トンネル東口付近に到着します。
道の左手には、昭和4年建設の旧鶴巻邸が見えます。
これは、当時の新しい技術である「中村鎮(まもる)式鉄筋コンクリートブロック造り」の工法を導入したもので、
設計は、京都の西陣織物会館(現京都市考古資料館)を担当した本野精吾(もとのせいご)です。
その脇に、第10号橋が架かっています。
アーチ状になっており、太鼓橋の異称がある橋で、
橋の両端側面に、工事の請負人や技師の名前とともに、
架橋年代が刻まれています。
ちょうど年代を示す数字の部分が読めなくなっていますが、
別の記録によると、明治37年(1904)とのことです。
写真12 第10号橋(太鼓橋)
写真13 第10号橋の刻銘
そこからは、第2トンネル東口の洞門が間近に見えます。
扁額は井上馨(かおる)の揮毫で、「仁以山悦智為水歓」の8文字です。
洞門の構造は第1トンネル西口とほぼ同じ。扁額の文字は陰刻です。
写真14 第2トンネル東口洞門
道を左手に上ると住宅街になりますが、
しばらくすると、また右手に曲がる道があります。
その道を降りると、目の前に第2トンネル西口が見えてきます。
この扁額に刻まれた文字は西郷従道(つぐみち)で、
かの有名な西郷隆盛の弟になります。文字は陽刻で
「随山到水源」(やまにしたがいすいげんにいたる)と刻まれています。
また、今までとは違ったヨーロッパの中世城郭のような豪壮華麗な構造です。
実は第3トンネル東口も、少し構造は違いますが、
これと同じ城郭風の姿になっていますので、注目していてください。
写真15 第2トンネル西口洞門
本日のコースも、終わり近くになってきました。
そこからほんのしばらく進むと、
第3トンネル入口に到着します。
その手前に、日本最初の鉄筋コンクリート橋が見えます。
現在は鉄柵に囲まれていますが、明治36年(1903)の架橋。
当時は材料に不足し、疏水工事用のトロッコのレールが
鉄筋替わりに使用されたということです。
橋板を渡しただけの簡素な構造になっているのが、いかにも日本最初を感じさせます。
実は、さきほど紹介しました第10号橋(太鼓橋)は、
このときの経験を活かして翌年に架橋したものだったのです。
その橋を渡ると、日本最初の橋を記念した石碑が立っています。
表面には「本邦最初鉄筋混凝土橋」とコンクリートを漢字てうまく表現した文字が刻まれているのも微笑ましいですね。
写真16 日本最初の鉄筋コンクリート橋
写真17 記念碑
さて、いよいよ今回の最終見学地、第3トンネル東口に到着しました。
といっても鉄筋コンクリート橋のすぐ近くですが・・・。
このトンネルの洞門は、さきほど紹介した第2トンネル西口と似た構造ですよね。
扁額は松方正義(まさよし)の揮毫になる「過雨看松色」(かうしょうしょくをみる)で、
水が流入しているので、今までのとおり陰刻になっています。
写真18 第3トンネル東口
写真19 しめくくりのあいさつをする担当者
時間は午後2時15分。参加者をお連れして
説明しもっての道中にしては、少し早いペースでしたが、
参加者の方々のご協力により、
脱落される方も無く、無事終了することができました。
当日参加された皆さん、ご苦労様でした。
(担当学芸O.H)
れきはく講座現地見学会「堅田古絵図ツアー」
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